昭和三十九年十一月二十七日 夜の御理解                     

                                                                                

お道の信心をさせて頂いたら、段々どういう風に変わって行くだろうか。どう言う風に変わって行く事が正常な変わり方をして行く事だろうかと、まあ、色々な事が判らしてもらいますね。
天地の御徳が判らして貰い、ほんとに、天地の御徳に対して神恩報謝の生活が出けるようになると、天地の道理が判らして貰い、道理に即応した行き方をしなければいけないだなー、幸せにはなれぬのだなーと言うような風に、その、道理が身に付いてき、又は御神恩が直に心から感じられるようになる、と言うことはどういう事になるかと言うとですね、結局こう言う事になるのじゃないでしょうかね。昨日を忘れ今日を喜び、そして明日を楽しむ、と言うような有り方に成って来るんじゃないかと思うですね。例えば、お道の例えばそういう様な信心を段々身に付いてくればです、そういうような状態になっていかないならば、可笑しいと私は思うでうね。所謂、過去、昨日を忘れそして今日を喜ばせてもらう、そして明日を楽しませて頂くと言うような、それがいよいよ限りなくほんとの事に成って行かなければならないと言う事です。
ね、もう、あの事だけは忘れられんち、今日本気で喜ぼうなどと言うところに焦点をおかない、そして明日はどげんなるじゃろかと言って苦労する、しておるとするならですね、これは信心を頂いてー信心がほんとによい具合に成長しおると思われないと思う。何十年信心しておってもそんな人があるんですよ、やはり。だから、そう言うおかげは受けられないと思うですね。私は、今日は、今日ではないですけども、あのーテレビにあのーうず潮と言うのが昼、丁度食事を済ました頃からあっているんですね。あれは林扶美子の、あれはあのー林扶美子の書いた物ですか、うず潮と言うのは、林扶美子をモデルにしてうず潮と言うのを扱ってあるとじゃないですか、自叙伝ですか、あれがあってるですね。それを、私あのー昨日、今日あたりのを見ておるとまあー、私とようー似たものを感じるですね。もう、限りなくお人よしですね、あの人は。して、一寸おっちょこちょいの所があるですね。そして、人から頼まれたら嫌と言いきらんと言う性分の人ですね。そして、昨日は、もう過去の事は忘れる、そして、今日はほんとに真剣に喜ばせてもらう。もう、先を楽しんで行くと言ったようなタイプの人なんです、信心がなくてもあんなタイプの人があるんですね。昨日私は、前から見ませんから知りませんけど、まあー兎に角、心易い友達なんですね。いやそのー頼みに来てるんですね。それはどういう事かと言うと、その、お父さんが亡くなった。亡くなって判った事はお父さんに、そのお手 掛けさんがあったと言う事。しかも、子供さんまである。しかも、その子供が息子である。自分達は女姉妹三人かなんか言ってましたね。そこで、相手の女の人が自分の身の立ち行くようにしてくれと言って来ておるから、その解決を林扶美子に頼みに来てあるところなんですね。昨日は確かそうだったと思う。それでそんな、ややこしい事私に出来るかしらと言いながらです、嫌と言いきらんわけなんですよね。そして、その言っている事がもう母も憎み自分も憎みです。もうほんとにその、だから解決しなければならんだろうけれども、なんか保険金が七百円か六百円入って来るわけなんですね。ですから、その中から向こうの女に五十円位遣って片づけてくれとこう行っている訳なんです。林扶美子にその事を言って呉れとち、それでそのまあー、二人でその行ってるんです昨日。そしたらアパートの二階のような所で、えーまあ間借りをして暮らしておるその人がですね、そのもう普通で言うおてかけさんと言ったような感じ度、おしめかなんか干しておるような所を見てからですね、とてもあれを見たら行かれんち言う訳ですね。
そして、どうか、あのー例えばなら五十円ち言わずにまあ百円ばかり気張って  から上げられるわけにはいかんとね、と言いよるとです。片一方は、もうそれでなくてもまあ憎いとですから、もう金を遣らんでも片ずけたいと言ったようなものがあるんですね。けれども、そこんとこを林扶美子が言ってるんです、どうかもう、兎に角五十円、もう百円位気張ってやれんだろうかと。ね、お母さんも立てなきゃならんし、あんた方も立たなきゃならんけれども、ね、やはりあのお父さんのそうした不始末であるけれども、相手の女の人も気の毒であるから、相手の女の人も立たなきゃならないし、向こうの子供は特に息子と言うわけですからね、出来るならその、まあ百円位気張ってやれんかしらと言うておって入りきらん訳です。そんなことしよったら滑って転ぶ訳なんですね。そして急病になって病院に入って、それが流産しておると言うところですね。だから、流産をしておるそこん所にその、頼んだ娘さんがお見舞いに来ておるところです。私が要らん事を頼んだために、あーたがこんな事になって取り返しの付かない事になってから、ね、しかも赤ちゃんを産むことも出来ずほんとに済みません、と言うてからお詫びに来てるその時に言っておりますね、もう私は過去の事はもう忘れる、昔から忘れる性分だと、そんな事は一つも心配要らんですよっちか ら言ってる。ね、                      隣のベットに休んでいる、やっぱ流産で入院しておるその女の人がですね、男に捨てられて、そしてその、悲観のあまりにわざと流産させて入院しておると言う。だからその、林扶美子さんに自分の事を書いてもいいんですよと言う訳なんですね。その時に、はあーとても人のそう言うような深刻な苦しみをね、私はよう書けませんと言うてから言っておるところなんです。所謂、その林扶美子の人柄と言うものがね、昨日、今日の事からそんなものを感じるんですよね。そして、今日、その娘さんがお見舞いに来てからですね、もう林扶美子に言っているんですよ、今日お母さんこうこうだったと、扶美子さんがそりゃ、兎に角もう、私達親子にも同情おられるけれども、向こうの親子にも同情しておられる。もうそれが真剣にそれを言われる事をお母さんに話したら、お母さんが真剣に感激してですね、林扶美子さんのその心根に感激してね、ほんにそれもそうだなーと言って、そのお金を半金くれるようになったと、その保険金のですね。そして、その私達女姉妹三人で、その将来の事も見てやろうと言って話し合ったんですよと。子供の中学卒業する位までは見てやろうと言うふうに話が決まったんですよと言うことを、非常に寝ながら林扶美子が喜ぶところだったですね。で、そう言う、その実感と言うものがですね、その相手のお母さんの感激になってるんですね。そしてそこに欲もなければ得もない、やはり肉親としてですね、姉妹としてですね、又主人が世話になった女の方としてですたい、もうほんとに、あのそう言うガメツイ事を、兎に角、腹の立ったというようなものをサラサラとね、こう投げて捨てて、ほんとな事になって行こうとこう。それを、林扶美子さんが大変喜んでおる所の今日の場面でした。ね、
だから、信心はなくても確かにそう言うような人がありますよ、林扶美子さんのようなタイプの人は。だから、信心をさせて頂いて、私共がどう言う風に変わって行くかと言うと、ただ今申し増すように、昨日を忘れ今日を本気で喜ばしてもらい明日を楽しませて頂くと言うようなものが、言うような状態が限りなく深められて行くと言うことが、私、お道の信心を身に付けて行きよるのであり、それが血に肉になって行きよると言う事です。どうでしょうか皆さん、その事を聞かれてから、そうじゃなからにゃいけんなーと思われないですかね。やはりその、信心させて頂きよりますとね、やっぱり、その、人間がようなります。ね、まあーおっちょこちょいと言う事にはなんにしても、私だってそう言うとこがあります。自分ながらおっちょこちょいでお人好しで、いやちゃ言いきらんち、人から頼まれれば嫌とは言いきらんと言ったようなところがあるです。そしていて、所謂、昨日を忘れ、今日を本気で喜ばして頂き、明日をもう限りなく楽しませて頂いております。
それが、しかもそのいよいよ深うなって行かなければならん、信心させて頂くならそこん所がどういう、いわば悪性の人でもですよ、それがそうなっていけれるように教えて例えてあるんです。
ね、今日、私は甘木の親先生のご伝記を読ませて頂いて、先生が説いておられるご理解の中にですね、信心の教えと言うものが血になり肉にならなければならないと、だからここまでは何時も私が言っておる事なんです。けれども、その血に肉になり肉になり血になりそれがね、次の働きになっていかなければ駄目だとね、信心が血になり肉になってまいりましたら、今私が申しましたような、林扶美子さんのその性格のような事になって来るんです。血に肉になってくると言うことは。ね、お互いの信心が血に肉になっておるかどうか、果たしてそういうような、その昨日を忘れ、今日を喜び、明日を楽しませて頂けるような状態になって行きよるかどうか、これはいよいよ、血に肉になっておるからそう言う楽な心の状態というのが頂けれるのです。ね、そこの先を説いておられるのですね、安武先生は。そう言うような状態が次の働きになっていかなければいけない。その次の働きになって行くと言う事がです、いよいよおかげを頂くと言う事になるわけですね。お徳を受けると言う事になるのです。その次の働きいかによっておかげになり徳になってくる訳なんです。椛目の場合、ここは説きませんでしたですね、あんまり。だから、今言うように林扶美子さんの性格のような性格がです、私共の生活の中にそういうような事になって行きよるかどうかと、信心が育って行くとはそう言うような事。血になり肉になってまいりますと、そうならなければ馬鹿らしゅうなるて、そうなって来るのである、自ずと。しかもそれが、次の働きになって来る。その働きがおかげを約束するのであり、お徳が受けられる絶対の受け物になって来るのです。もう、次の働きによって、言わば、そのおかげ、徳というものがそれぞれに変わってくるわけなんですね。
ですから、いよいよ力がですね、ほんとの物になるわけなんです。何かこう、ゆったりしたその、贅肉が付いたと言ったような意味相の物だけではなくてですね、教えを頂いて、心が豊かになって、もう昨日の事なんかほんとに流れ川三尺というて、もう綺麗に流していけれると。ね、今日がほんとに、今日あると言うことが有り難い、明日はどういうおかげにまた進展していくだろうと思えば、明日が楽しみと、心が豊かになって平和になって来る、ね。
しかも、そう言うような働きがですね、しかもそう言うような血に肉になったのが
てくる。いよいよほんとの力が付いてくる、ほんとの徳が受けられると言う事になって来るのじゃないでしょうかね。                         「おかげ頂きました」